カベジマ研究所2

Legasyswareのゲーム開発と日常をゆるく適当に綴っていくブログ

情報の取捨選択の機会喪失

世の中は便利になったような気がする。

ような気がするけれど、それはきっと気のせいだ。

 

昔よりは便利になったかもしれない。

ポットは自動でお湯を沸かしてくれるし

洗濯機は自動で洗濯をして乾燥までしてくれるし

食洗機は自動でお皿を洗ってくれるし

月の支払いも自動で更新してくれる。

 

 

でもだがしかし、そこに至る過程はどうなってしまったんだろう?

 

ポットのお湯は自動で沸く。でも水は自動で湧いているわけではない。

いずれは自身で給水までをも行なえるかもしれないが水を入れるのは人間だ。

 

洗濯機は自動で洗濯してくれるけれどその洗濯物はどこから来る?

服を着るのは人間だ。着なけりゃ洗濯物も出ないだろう。

 

食洗機に入るのは使った食器。

まさかお店で使用済みの食器は買って来るまい?

 

そこに至る過程があって便利さは形となる。

 

インターネットを覗けば自分好みの情報を自動でピックアップしてくれる。

なんでも自動でやってくれるから便利だ。

 

でも、その情報は・・・どこからやって来るんだろうか?

 

Aと言うものの情報を得る為にBとCを調べなければならないとする。

Aの知識を得ると同時にBとCの知識も蓄積される。

 

でも何処かから湧いて出る情報は正しいのかどうかすら、よく分らない。

 

通販サイトでは自分の好きな商品の情報がピックアップされてくる。

Aと言う商品が好きならばDもきっと気に入りますよ!Eなんかも人気です!

 

そうやって誰かに"あてがわれた"情報を僕らは収集している"気"になっている。

 

何も見ず何も聞かず、何も考えず、誰かに「好きだ」と決められている。

 

でも確かに、言われてみれば僕はこれが好き。

そんな気がしてならない。

 

でも、自力で好きになる機会を奪われている。

そして誰かの用意したものを好きになってはいるが

用意されていないものの中には好きなものはないのだろうか?

 

世の中は便利になって、特に情報を集めることは簡単になったと言っていい。

 

でも、本当にそうなのか?知らない世界は存在しないのだろうか?

何もかもを知っているような気分にはなっているけれど

それには何か意味がある?

 

知らないことがある・・・なんて素晴らしいことなんだ!!

そうは感じはしないのか?

 

情報の取捨選択の機会はアルゴリズムの進化により、上手に奪われていく。

それはつまりビックリするような発見がどんどん減っていくことと同義だ。

 

人は創造の意欲をどんどんと奪われていく。

 

どんどんと便利になっていく世の中。

いや、全て気のせいだ。

 

簡単に単純に浅薄に、変わっていく過程でしかない。