カベジマ研究所2

Legasyswareのゲーム開発と日常をゆるく適当に綴っていくブログ

ゲームにおける芸術性

ゲームにおける芸術性なんて語りたくは無い。


自分の考える限り・・・ゲームは芸術とは少し違うポジションの表現物
(あえて表現物と言っておく)で、ゲームを芸術的だと言わしめる可能性のある部分
・・・絵や音やお話の部分は本体付属品、つまりそれらを取り除いた時に残るものは、
おそらく人の目にあまり芸術的には写らないだろう。


ゲームをゲームたらしめるのは当然それが遊びとして成立するためのルールがあって
そしてそのルールに沿ってプレイヤー同士、或いはCPUと得点を競い合うこの一点。
これが無ければその表現物はゲームとは呼べない。


だからゲームが芸術的であるためにはこのルールに芸術性を持たせなければならない。
どんなルールであればゲームは芸術と呼べるようになるのか?


今回はそれを考える回ではないのだが・・・ここまで書いてしまったのならば
考えないと面白くないので少しだけ脱線してみることにする。


ゲームにおける芸術的なルールがあるとすれば、先ずそれは芸術性そのものを
競うゲームである可能性がある。


例えばフィギュアスケートには芸術点という評価項目がある。
芸術的なポーズやしぐさ・表情などを競い合うゲームであるならば、
そのルールには芸術性があるといって差し支えないだろう。


次に『ルールが突拍子も無い』というゲームであればその突拍子の無さを持って
芸術的なゲームだと言い張ることも出来なくはない。


他にも『ルールが完璧すぎて最早芸術』とか
『そのルールに従いプレイする様はあたかも芸術の様にも見える』など、
面白く評して芸術をオチにすることも出来るがプレイヤーにルールを提示して
そこに芸術性を感じさせるのはおしなべて簡単ではないだろう。


では本体への付属品が芸術的であればゲームは芸術足りうるのか?
正直それは分らない。


自分としては先に「芸術とは少し違う表現物である」と述べているので
ゲームを芸術とは認めたくない。


本体付属品が芸術的・或いは芸術そのものであれば
ゲームを芸術と呼んではばからないかと言うと、それははばかるのではないか?


ダヴィンチのモナリザを芸術ではないと感じる人は一般的には少数だろう。
だがしかしゲームの背景にダヴィンチのモナリザを使っても
それを持ってそのゲームを芸術とは呼べない。
(但し、モナリザは芸術であるので背景に芸術を採用するような作品は
これもまた芸術的であると主張できなくはない)


グラフィックが美しいことは「芸術的」だが、芸術的と言う言い回しは
それが芸術そのものであるとは、ニュアンスとして言い切らない。


「芸術的」が芸術を肯定するものでないならば音楽が素晴らしくても、
ストーリーが感動的であっても、それが芸術であることの証明には
一足飛びではならないということだ。


そもそも芸術とはなんなのか?


最初に言っておくが「芸術」=『究極の美』ではない。


「美」はあくまで「美」だ。
人の精神状態を揺り動かし『感動』を引き起こす
「情緒に作用する化学反応」を持って「美」を芸術だと主張することは
出来そうだが、美しいことは芸術の内包する一側面に過ぎず、
美しさを持って即ち芸術とするその旨は単に早計であると言わざるを得ない。


結論を言えば芸術とは芸術の道を進まんとする人の佇まい(内面含む)
そのものであり、芸術的な人の生み出すものはおそらく例外なしに芸術とでも
呼ぶべきものなのである。


だから商品や製品として世に出て行く類のものはそもそも芸術ではないのだ。


何かを「芸術だ」と言いたい人の気持ちは分らなくもない。
だが芸術とは「そのようなものではないよ」と多少のお節介をしてまでも
伝えておかなくてはならない。


だってそうしなければ、真に芸術を志す芸術の探求者たちに対し
「理解できます」と声をかけるようなものであるからだ。


芸術家ならば誰しもこう思う。
「何を言うか、理解出来ちゃったらお前も芸術と言うことになるだろうが」


ああ・・・だからゲームにおける芸術性なんて語りたくはないのだ。