カベジマ研究所2

Legasyswareのゲーム開発と日常をゆるく適当に綴っていくブログ

表現の自由は社会に身をおいてこそ許される

『ヘイトも表現の自由』であるだろうか?


これは今朝の毎日新聞1面の記事見出しからの引用だが、
表現の自由が認められている以上どんな思想を持ち、それを
公に対し主張することもまた自由である・・・と言うのだ。


理屈の上・言葉遊びの上では確かにそうなるが、多くの人が
そんな考えは間違っていると、そう感じているのではないだろうか?


地球上の他の生物と比べれば、人は確かに特別な存在だ。
高い知能を持ち文明を築き上げ、自分達の生まれ育った惑星の外にまで
好奇心と欲望の目を向けるそんな種は存在しない。


けれど他の生物と同様に・・・死ぬ。
酸素がなくても死ぬ。水がなくても死ぬ。食料がなければ死ぬ。
超高温で煮えて死ぬ。超低温で凍え死ぬ。病原体に感染して時に死ぬ。
霊長類だ、全ての種の頂点だと言いつつも他の生物と同じ条件で死ぬ。
一つ違いがあるとすれば・・・金がなくても死ぬことくらいだろうか?


生物・動物と言う観点から見れば群れを作る・社会性を持つ動物は
その群れから追い出された時点でほぼ生き残ることは出来ない。


絶対に無理と言うわけではないが野生の動物の暮らしは常に困難にさらされており、
その動物が群れを作ることでそれに対抗しているのであれば群れに入れなければ
それは死んだも同然なのである。


群れを作る動物には少なからず掟が存在していて、そしてその掟は絶対だ。
掟を破ったものは群れから追い出されるか万が一、群れに留まることを許されても
その後は最低の地位に甘んじなければならない。


そうしなければ生きていけないからである。


さて、人間はどうだろう?
人間の世界には法律があって人間にとっての掟とは法律かもしれない。


しかし民主主義国家においては基本的人権が保障されており、例え法律を破っても
宇宙空間に放り出されるようなことはない。


刑務所などに入れられ、身柄を拘束され、自由を奪われることはあるかもしれないが
死刑が廃止されている国であれば命まで取られることはない。


なんて優しい世界なのだろうか。


動物の世界であれば群れの掟を破ったものは、群れの調和を乱したものは、
生き残ることが難しくなると言うのに人間の世界では直ぐにそうはならない。


ヘイトは社会の調和を乱す行為に他ならない。
広義的な意味合いでの表現の自由があって存命の特定個人を
誹謗中傷するものでなければどんな言葉を使おうと法には触れないとしても、


多くの人がそれを受け入れられない・許容しないのであれば
その言葉を口にし続けることは、人間の掟には反している。


動物であれば許されないが人間であるから許されている。
許されているからやっても良いと言う主張でしかないならば、
生物・動物の観点から言えば、つまりそれは単なる甘ったれだ。


もし、その言葉が社会に対する反乱そのものであれば法で対処できるだろう。


ヘイトなんて単なるたちの悪い屁理屈に過ぎない。
そこに多くの人の気持ちと命を背負い、そして多くの人に希望を与えぬ限り、
正当性なんて微塵もないのである。