カベジマ研究所2

Legasyswareのゲーム開発と日常をゆるく適当に綴っていくブログ

極論はぶっちゃけていない

もう冬ね・・・と言った感じで隙間風に揺れるカレンダーは早くも11月。

 

最近インターネット上には強い口調の個人の投稿が乱れ飛んでいる。

以前であればそう言った言葉は誰かがたしなめて直ぐに収束していたが

最近は強い言葉には強い言葉をぶつけて相殺・・・相殺出来ていません!

みたいな感じで互いに除去出来ない劇物を撒き散らし合っているような

状態が続いているように思える。

 

ユーモアに富んだやり取りならば「毒」が混じっても何てことは無い。

その毒は見せかけだと解っているからだ。実に穏やかなものだ。

 

でも口から唾が飛ぶほどの剣幕ならば見せかけもクソもない。

それは本物の「劇薬」であるかもしれないと常に警戒してかからねば

ならないだろう。

 

ユーモアある「毒」と真贋の判らない「毒」とは何が違うだろうか?

それは・・・その毒が『誰に向けられているのか』であるだろう。

 

ユーモアは自分と相手と更にギャラリーが存在してこそ、機能する。

自分と相手の二人きりでも機能しない事は無いがこの場合のユーモアは

「毒」である。ここで毒を吐けば・・・関係が拗れても仕方が無い。

 

対してギャラリーがいる場合の「毒」は誰に向けられたものでもない。

自分も相手もそしてギャラリーも、それが「冗談」だと解るだろう。

(冗談と解っていても許せない、と言う場合もあるだろうけどね)

 

つまり毒を=「強い言葉」と言い換えると、強い言葉は互いに信頼が

あって始めてキャッチ出来ると言う事だ。

 

この人は自分に対し冗談をよく言う・・・と解っていればキツイ言葉も

「またいつものアレだな」と流す事が出来る。

(勿論乗って言ってもいい)

 

あの人はその人に対してよく酷い事を言うけれどそれは本心ではないと

解っていれば「まあまあいつもの事だから」・・・と笑っていられる。

 

もし相手に対し、或いは相手が自分に対し、信頼を感じていなかったなら

「毒」は文字通り「毒」でしかないかもしれない。

 

信頼出来る・出来ないの判断は相手を知っている前提でしか成り立たない。

 

相手の事を知らない・・・つまり縁も所縁もない赤の他人、

そんな人と強い言葉をぶつけ合えばどうなるかなんて考えるまでもない。

 

インターネット上で向かい合っている"その人"とは多少の縁があって

袖触れ合ったのかもしれないが、その人と面識がありよく知っているのか?

互いに知っていたとして関係は良好なのか?

強い言葉をぶつける前によく考えてみて欲しい。

 

強い言葉の内には極論も見受けられる。極論は白か黒かで決める2ビットだ。

そこに議論の余地は無い。何故なら答えは最初から決まっているからだ。

白っぽければ白。黒っぽければ黒。グレーなんて無い。

 

一昔前「ぶっちゃけ」と言うフレーズが流行っていたが最近あまり聞かれない。

自分は何故だか好んで使うのだが、ぶっちゃけ・・・「ぶっちゃけ」って

思うほどぶっちゃけて無くね?

 

「ぶっちゃけ」は結論ありきで語りつつも想像の余地を残している。

(個人の感想です)

 

つまりある程度相手にも判断を委ねていて、ある意味『玉虫色』の状態だ。

 インターネットは人と人を結びつけるツールであったから玉虫色の回答は

時に必要不可欠だったと思う。YESかNOかでは参加へのハードルが高過ぎる。

曖昧さが許容され、牧歌的とも言えたネットの自由時代は何時か厳しい追及に

満ち溢れ、今や対立を生むツールへと変わってしまったようだ。

 

対立は今一番アツいコンテンツ。

 

何故かと言うとその状態に「旨味」を感じる者がいるからである。

より旨味を引き出す為には曖昧さが邪魔となる。 そこで生きるのが極論だ。

 

ぶっちゃけ・・・極論とは永遠に交わる事のない平行線上にて互いに毒を

撒きあう悲しいコミュニケーションなのかもしれない。

(感じ方には個人差があります)

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極論はぶっちゃけていない