カベジマ研究所2

Legasyswareのゲーム開発と日常をゆるく適当に綴っていくブログ

自分である事を拒む演出

某『休業配信』でサンダーフォースVpsのプレイをはじめて見た。

(前日の夜はガンダム配信で腹抱えて笑わさせていただきました)

 

・・・わざとらしく「某」としたのは自分はゲームセンターに

もう長い事足を運んでいないので言及する資格を持たないからである。

サンダーフォースVの配信自体は楽しく拝見させていただきました

サウンドもビジュアルも本当にかっこ良くてテクノソフトが現存して

いない事が本当に悔やまれる)

 

さて、件のサンダーフォースVであるが、自分はリアルタイムでは

プレイした事がない。後に中古でサターン本体(初期型・ジャンク)

を入手して、そこから徐々にサターンのソフトも集めるようになり、

新たに状態の良い白サターンを購入し、そして遂に大本命である

セガサターン版のサンダーフォースVも入手したのであるが・・・

 

実際にプレイしてみて、自分の思い描いていたサンダーフォース像とは

全く異なる、このシリーズ最新作にして最終作を前にかなり困惑した

記憶がある(例の6は実質本編ではなく、異聞伝だと思っている)。

 

難易度の高さもあり、自分はサンダーフォースVをクリアしていない。

(フリーレンジを使えば余裕と言う話もあるが攻略法を見出せるほど

システムを理解してもいなければプレイ回数も重ねてはいない)

 

サンダーフォースIIIとサンダーフォースIVはシステム的な違いは少なく、

ハードが同じと言うこともあってビジュアル面も同じ路線を踏襲しているが

サンダーフォースVではグラフィックスはドット絵からポリゴンへと代わり、

世代を二つくらい飛び越えた感じすらする、大きな変容を見せる事となる。

 

更にはゲームシステムも大きく変わり、IVまでのサンダーフォースとVとでは

全く別のゲームであると感じた。

 

何よりも・・・Vではポリゴンになった事で受ける最も大きな恩恵を活用=

ステージ内演出に対し「視点の変更」と言う概念を持ち込む事となる。

 

すると結果的に世界は「プレイヤー自身の視点」から外れていく事になる。

画面が傾いた瞬間「そこで戦っているのは自分ではなく、今まで自分自身だと

思っていた別の何者か」に成り代わってしまうのだ。

(プレイヤーが任意で行なえる右スティックでの視点変更などは問題ない) 

 

それに気付いた時、興醒めしてしまう。

 

だから自分はプレイヤーが関与出来ない画面切り替えのあるストーリー上の演出、

所謂ムービーがあまり好きではないのだ。

 

勿論人それぞれ。自分の様に感じない人も沢山居るだろうしこの様な演出が

入らないと逆に没入感を感じないと言う人だって居ることだろう。

 

でも自分は「自分自身がそこに居て戦っているという感覚」を一番欲していて

自分の意図とは異なる言動や行動をプレイヤーキャラクターが取った時に

プレイヤーキャラクターは「俺」ではなく「この人」に一人称が変わってしまう。

 

ロールプレイなのだと思えばいいのかもしれないが既にそれは「他人事」なのだ。

真剣には取り組めなくなる。

 

誰だってかっこいい映像は好きだし見た目やポーズもかっこいい方が良い筈だ。

でも映像でいいのならば・・・自分でプレイする必要性は必ずしも、ない。

 

ゲームの中で自分が「俺」で居る為には視点は一切変わってはいけないのだ。

 

勿論これは自分だけのルールだし共有する必要のない感覚である。

所有しているにも拘らず、何故プレイ出来たゲームとそうでないゲームが

あったのか、自分にとっての理由はその様な事だったのかもしれない。

 

かっこいい戦いを眺めて悦に浸りたいのではなく、自分自身が泥にまみれて

時に殺されたりしながらも自分の力で戦いたいのです。

 

ちなみに、この記事はサンダーフォースVを否定する記事では無いので

留意ください。