カベジマ研究所2

Legasyswareのゲーム開発と日常をゆるく適当に綴っていくブログ

雑な収束は弱者を守らない

罰ゲームはいけない。あんなもの誰も見たいと思っていない。

もうそんな時代は終わったんだ・・・

 

なんて言葉を聞く事がある。

テレビでは罰ゲームはいよいよNGになりつつあって、最近は

ゲームに負けた方がご褒美を貰えない・・・と言う方式が増えて

罰ゲームをやる方が珍しいくらいになっている様だ。

 

「良いことじゃないか、あんなの下らない」と言う人がいる。

正直言ってつまらん。

 

出演料を頂いてテレビに出ているタレントがご褒美を貰う様を見て

何が面白いのだ?

 

罰ゲームはいじめを助長する、差別の入り口になる・・・なんて

考えの人もいるかもしれないが、ご褒美を貰えない事はいじめでは

ないのか?

 

先ず、断っておこう。罰ゲームは仕掛ける方もキメられる方も嬉しい。

それはテレビにおいてはそのような約束事が最初に成り立っているからだ。

お互いに相手の事をよく知っている同士であるから、出来るのだ。

様は馴れ合い・じゃれ合いなのだ。

 

見ず知らずの人にいきなり罰ゲームと称してパイ皿を投げつけるなんて事は

ありえない。

 

勿論誰もが体験したくないような罰もあるし事前にそのような話を

されぬまま、不快な罰ゲームを受ける事だってあるだろう。

その場のノリや誰かの無邪気な悪意であったり、その様な行き過ぎた

罰ゲームはやめた方が良いと思う。

 

ただ、罰ゲームを見たくないと言う人の「事象を自身に投影し過ぎる」

傾向と「過剰に身を守ろうとする」反応、そして強く「他者に要求する」

あり様と言うのは病的を通り越して戒律的であるとも感じるのだ。

 

つまり、そこには密やかに人を支配しようとする意図を感じてしまう。

 

誰だって罰ゲームなんて本心では受けたくはないものだ。

しかしそんなもの禁止すべきなんて強く思ってもいないと思う。

多くの人にとって、それは「どうでもいい事」なのだ。

 

にも拘らず、それをルール化し、制限し、行く行くは禁止しようとする

この世論の流れこそ、実はいじめや差別をステルス化し常態化させんとする

無垢なる悪意から来るものではないのか。

 

あだ名禁止もそうだし背の順に並ぶ事への反対の意見などもそうだ。

あだ名なんてあっても無くても良いし背の順に並んでも並ばなくても良い。

 

でも「それに苦しめられている人」がいて、その事を誰も理解していなくて、

マイノリティーに配慮しなければいけいないと。

 

例えば・・・貧乏人はマイノリティーでは無いのか?

いや日本は既に財産を持たない人の方が多くなりつつあるから貧乏人は

多数派なのかもしれないが、貧乏人にどんどんお金を分けてあげようなんて

活動は聞いた事が無い。

 

マイノリティー=弱者だとして、昨今のポリコレ風潮は弱者の立場を

利用して社会的に優位なポジションを獲得する為の策略として上手く

機能し過ぎているのではないか?

 

弱い人を助けよう、守ろう・・・良い事だ。

悲しんでいる人達に優しくしてあげよう・・・当然の事だろう。

 

しかし世の中には富めるものと貧するものがいるのが当たり前と

なっているように弱い人や悲しい人がいるのも当たり前なのだ。

 

花に水をやる事もあれば誰に断るでもなく摘む事もある。

 

ゲームにて、罰を受けたり与えたり。

よくよく考えてみればどうと言うことのない方が多いのでは?

 

面倒ごとをなんでも十把ひとからげにしてしまってはいないか?

我々は一つずつ吟味する事を忘れたのだろうか?

 

雑な収束が弱者を守る事なんてありはしないのだ。