カベジマ研究所2

Legasyswareのゲーム開発と日常をゆるく適当に綴っていくブログ

記憶耳コピー

自分の気に入った曲を譜面を見ずに耳で聴いて写し取っていく事を

俗に「耳コピー(略称:耳コピ)」と言う。

 

普通、耳コピは原曲と聴き比べながら行うものだが、記憶の曲を

思い浮かべ、それを演奏なり譜面なりDTMなりで再現していく・・・

と言う遊びを「記憶耳コピー」と称してみた。

 

自分の記憶の中の曲はどれだけ原曲を正確に再現出来ているのか?

勿論自分で演奏される方であれば記憶云々の前に「指が覚えている」

などと言うこともあると思うが、俺は何の楽器も弾けないので

「記憶」と言うのが重要な因子となっている。

 

ゲーム用に既存曲のパロディを作る事も多いのだが、その際に

「原曲は聞かない」と言う事を徹底している。

 

何故かと言うと聞くと原曲の印象が強くなり過ぎてパロディの

パロディみたいな、「誇張した○○」が出来易くて音楽的な楽しさや

楽曲としての一人立ちが失われてしまう。

 

パロディーは「似てるけどよくよく聞くと別の曲」が望ましい。

そう言うわけで割と普段から記憶耳コピーを実践している今日この頃。

 

ふと、かの名作イースのフィールド曲「First Step Towards Wars」

(作曲:古代祐三)が脳内で流れ、記憶を頼りにDTMで再現する事に。

 

原曲を聴かなければ何かこんなんだった気もする・・・と言う感じ。

リズムは入れてません。FM音源ではなくてSynth1にてゆるく作成。

 

そしてこちらは譜面を見て入力したもの。音色のセットなどは上記の

記憶耳コピー版と同じにしてある。

 

改めて原曲を聴くと・・・細部の違い以前にキーが違う!!

こう言うことは俺の場合は起こりがちなので、気にしない気にしない。

自分で演奏しない為、自然とテンポが速くなったりキーが高くなったりと

好みに寄って行ってしまうらしい。記憶内で改変されてしまう。

 

そしてこれは参考にしたイースの楽譜集。当時自分で買ったもの。

譜面には一部間違いもあるけど、88mk-2だったりDOS-VのPCで

入力させて頂いていた。グラディウス悪魔城ドラキュラも含め、

俺のルーツが間違いなくここにある。

 

記憶耳コピーは挑戦と言うよりも個人の楽しみ。

原曲の作曲者よりも力量が劣る為に足元にも及ばないがそれでも

先人達の手練の一端を垣間見た気にさせて貰える。

 

オールドゲームミュージック系のDTM活動者は一度試してみては?

ジェネリックなら薬効は同じ筈だが・・・

テレビ放送されていた『メアリと魔女の花』を見た。

なんと言うか物語をまるで感じないアニメ映画だった。

 

主人公がボケッとしてる内に状況だけがどんどんと変わり、

魔法で何とかなったりならなかったりして終わった。

 

あと全般、箒にまたがって飛ぶシーンが多い。

ジブリ作品だったらそうは描かれないであろう主人公の太ももや

金髪の美少年とかにどういう層に向けて作られたのかを察してしまう。

 

空飛ぶ魚のようなクリーチャーもリアルでもなく、ジブリ的な奇妙さもなく、

不細工な粘土細工がなんか執拗に主人公を追ってくるなぁみたいな

印象しかなかった。

 

もっと早い段階で主人公と男の子が仲良くなっていく過程を描けば

お互いに「助けたい、助けなきゃ」と言う感情も強く出るだろうけど

顔見知り程度の関係で唐突にそこまで持って行く?と言う疑問も生じる。

 

猫を介した導入部分も特に匂わせも無く進むし、作り手のみが知る

予定調和が多く、意外性も無く、画面内で何かが起きてから

「ああやっぱりそうなのね」と視聴者がなんとなく察するだけの

雰囲気ゲーならぬ『雰囲気アニメ』とでも言えば分かるだろうか?

 

ジブリ作品のジェネリックと言うよりも元ジブリの人が参加した

ゲームのOPアニメ・・・みたいな印象の作品だった。

死刑廃止は今、議論すべき事か?

死刑を廃止しなければいけない理由なんてあるのだろうか?

軽犯罪を犯したものが死刑判決を受ける事なんて無い。

 

死刑判決を受けるのはそれに値するような罪を犯した時だけだ。

 

「死刑囚やその家族の気持ちを考えたことがあるか?」

・・・と問う人が居て自分は「無い」と答えるだろう。

 

自分は死刑に値するような罪を犯す予定は無いし家族にも

そのような罪を犯すものは居ないと信じているからだ。

 

法を犯したものに対し、より厳罰化を望むわけではない。

死刑とはそんなに重い罰なのか?

 

死ねば全て消える。全て無くなる。電池を抜くのと同じだ。

死んだ後なんて無い。

 

死後の世界なんて無いし死んだ後の事なんて残された人達が

考えるべき事だ。そう考えると死刑はそんなに辛くない。

 

残される家族や友達は苦しむし悲しむ・・・と言う事はある。

しかしそうでない事もあろう。そこで救われる場合もあろう。

 

死刑制度が残る事は別に遅れてはいない。

進んでいるわけでもないが、今急いで議論しなければならない

問題でもない。

 

生きているだけもうけ物なんて話もあるが

財産を全て没収される事の方がよっぽど厳しい罰なのでは?

 

命を生み出すのは人間だし、それを終わらせるのも又、人間。

神の意思なんてものは無く、全ては法によって裁かれれば良い。

 

だからこそ、法は守られねばならないし法に不備があっては

ならないのだ。

 

実在はしない神が「許す」などと言う事は絶対に無いのだ。

司法や警察が賄賂でどうにでもなるような国とは違うのだ。

 

しかし死刑執行官の精神的ストレスも無視は出来ない。

裁判員制度の様に一般から召集したり、希望者を募ったり、

様々な方法も考えられる。

 

「制度を無くしてはいけない」と言う程のものではないが

無くさなければいけないものでは恐らく無いと思っている。

暴力を嫌う人達の手を汚さない正義

それが「特に何もしないけどSNSなどで声をあげる」だ。

 

目の前で人が命を落としかけている。

「暴力はいけない」「こんな行為を許してはいけない」

・・・そう声をあげる。

 

飛び出していって、かかえて逃げたり暴漢を押さえ込んだりはせず、

駄目だ駄目だと騒ぐ。

 

まるでヒーローショーの観客だ。

 

舞台の袖からヒーローが飛び出してきて万事解決してくれるのを

ただ待っている、そんな印象だ。

 

暴力を嫌うのは悪を憎む気持ちではなく、

自分の身を危険に晒されたくないと言う感情からのみだ。

 

誰かを守るのではなく、自分を守りたい。

当然の防衛本能ではあるが僕らが子供の頃見ていたヒーロー達は

みんな危険を顧みず自身の身を犠牲に戦ってきた。

 

そんなヒーロー達の精神は気高く尊いが、今の時代ならば

ヒーローの労働環境について批判されるのだろう。

 

現実の世界にヒーローが居たとしても、きっと彼らは高い給料など

貰ってはいない。

 

戦わない人達が自分の権利を主張し自分だけの身を守る。

手は汚さないし余計な金も払わない。

 

SNSにはぶちまけてフォロワーを増やす事にも余念が無い。

 

助けてくれる筈のヒーローは年々廃業していく事だろう。

戦わない人達だけが生き残る。

首筋に止まる寄生者

いきなりだが、ジャニーズに続き宝塚が批判の的となっている。

宝塚の閉鎖的な体質や噂のブラックな労働環境は今後見直しが

図られる事に期待したいが・・・

 

「いじめはあったのか」の部分は、はっきりとはしていない。

 

自分はこのニュースを詳しくチェックしていないので経緯の

説明を省くが、ある意味伝統的な芸能であるからには指導の

厳しさも当然のものだし上下関係もフランクでは無いだろう。

 

そう言う厳しい世界に押し潰される者も出るであろう、

ほんの一握りしかステージのスターにはなれないのが常だ。

 

歌舞伎なども度々槍玉に上げられるが「名門」にはつきものだ。

名門であるからこそ厳しさは指導だけでなく自らの体質にも

向けられるべきだが、何れにせよ解決は内部で行なわれるべきであり、

外部の者が必要以上に両手足を突っ込むべきでは無いと思う。

 

何か問題が起きた時に「第三者機関を・・・」という話は尤もだが

その「第三者機関」に相当するものが公正かつ公平な立場か、

クリーンな存在であるのかと言うチェックが為されるべきではないか?

 

こうした芸能にまつわる騒動の向こうには

「この事態を利用して日本人の心を折りたい」

「日本において強いブランド力・カリスマを持つ者を潰したい」

「日本人の牙を抜き、無力化したい」

 

・・・と言うような日本への攻撃者の思惑がある様にも思える。

 

「それはいじめ」「差別だ」「日本は遅れている」

 

事実ならば由々しき事だが、攻撃者にとっては事実かどうかは

重要では無い。その主張をし続ける事によって対象を弱らせる、

根を枯らす事を達成すればよい。

 

被害者が悪いのではなく、被害者に一見優しい顔をして近づく

寄生者たちがもし存在するのならば、その者たちが恐ろしい。

 

もしかしたら「熊を殺すな」も同源かもしれない。

 

日本人の自らを律する強さ、美徳は平然と道端にゴミをばら撒く

だらしない者達にとっては脅威なのである。

Vガンダム

Youtubeにて毎週一話ずつ無料配信されていた機動戦士Vガンダム

ついに完結した。

 

一年半程度だったか・・・Youtubeで毎回見続けて今、見届けた。

 

本放送当時もそこまで盛り上がっていたわけでは無かったと思う。

自分もVガンダムがTVで放送されていた事は知っていたが全く見て

いなかったので(と言うかその頃はアニメ自体殆ど見てなかった)

一度は通して見ておきたいと思っていたのだが、全話見ての感想は

かなり複雑なものだった。

 

正直最終回前の何話かは必要無かったのではないか・・・?とか

あまりポジティブな感想は出ない。

 

Vガンダム制作時に富野監督が鬱症状に悩まされていたとか、

そう言う話は聞いた事がある。最終回を見るにカテジナ・ルース

魔性に監督自身終始翻弄されたのではないかなど、作品として

これで満足の行く内容ではなかっただろうなと、何となく思った。

 

結局ザンスカールはどうなったのか?

結局リガミリティアは勝利したのか?

赤ん坊になった地球人は元に戻れたのか?

 

ラストカットでV1V2はダグラムの様に打ち捨てられたわけではなく

コクピットにシートをかけられた状態で置かれていた。

またいつでも出撃出来るように待機しているようにも見える。

 

所謂"溶ける"描写の無かったカテジナは死ななかった。

ならば同じように溶けなかったクロノクルも生きているのではないか?

 

クロノクルへの愛を語るならばリングは崩壊し、スクイードも沈む中、

何故クロノクルを護り戦線離脱しなかったのか?

 

「登場人物が狂ってる」の一言で片付ける人は多い。

自分には登場人物の多くが『自らの意思ではない、何か別の者の邪悪な

呪いによって死を運命付けられ、死に場所を探し慌てふためいていた』

・・・ようにしか見えなかった。

 

終わったような終わらなかったような、それでいて続きは無くて良い、

もう眠らせてやって欲しい、休ませてやって欲しい、そんな気持ちに

なった最終回だった。