カベジマ研究所2

Legasyswareのゲーム開発と日常をゆるく適当に綴っていくブログ

ゼルダの伝説 ティアーズ・オブ・ザ・キングダム

所謂ティアキン、時間を見つけちょこちょこと遊んでいる。

まだハート6つ、がんばり+1個。全然進んでいない。

 

今後これ以上のものが登場しないのでは無いかと言うほど

ゲームは面白い。

 

エンジンは前作を流用してはいるものの、ゲーム性は

大分異なる。

 

前作は「よく分んないけど祠を探してパワーアップしないと

いけないんだな・・・」と言うのが続くが

 

今回は「ご飯の時間まで外で遊んで来なさい・・・」

みたいな感じで適当にふらふらしてても許される。

 

新たな特殊能力も面白いし新たに行けるようになった地底も楽しい。

 

最新のハードに最新のテクノロジーを詰め込んだゲームもある中で

枯れたハードの時間をかけて磨きこんだゲームが満点評価って、

本当に面白いなと思う。

 

任天堂はゲームを軽視しない。だから愛される。

 

アートだ、エンタメだと大衆を煽り続けた人達はこぞってゲームを

薄くした。

 

結果過去のノウハウは失われ、美男美女を見せて客を釣る商売に

託すしかなくなった。

 

ティアキンが面白いのはゲームとして遊べるからだ。

グラフィックスの弱さもフレームレートの低さも物ともせず、

ただひたすら面白さを提供してくれる・・・。

 

ゲームメカニクスもボリュームも過去最大級。

ストーリーやキャラクター、背景ビジュアルもハイセンス。

どれだけ労力をつぎ込んだのかと、考えると背筋が寒くなる。

無題

もし戦争になったら・・・君はどうするだろうか?

妻も子も居ない俺は国を守る為に戦う。

全身に銃弾を浴びても、地面に倒れ命が尽きるまで

一人でも多くの敵兵を倒すため戦うだろう。

 

それは俺が若者では無いからだ。

 

若い人たちには未来がある。

その後の日本を立て直し、再び日本を世界に誇れる国とするため

生き抜かなければならない。

 

だから学徒動員なんてナンセンスだ。

もし戦争になって市民が徴兵されるような事態になったら

真っ先に戦場に向うべきは我々中高年や高齢者であるべきだ。

 

俺は一応侍の子孫なので君主が戦えと言うならば喜んで武器を取る。

・・・他の人たちがどうなのかは知らない。

 

ただ、『戦わずに殺される方が良い』なんてのは冗談じゃない。

我々の祖先が血を流しながらも護って来たこの国を抵抗もせずに

明け渡すなんて出来よう筈も無い。

 

国を守る兵士達は他者の命を奪う事にも苦しみながら戦った。

心にも沢山の傷を負い、この国の未来の為に戦ってくれたのだ。

 

暴力反対、戦争反対、そう唱える事は同時にその人達の魂を

傷つけているのだという事を忘れないで欲しい。

 

我々の国は我々の祖先が流した血の上に建っているのだと言う事を

忘れてはいけないのだ。

 

暴力はいけない、戦争はいけない、そんな事誰だって知っている。

知っていたって・・・現実に戦争は起きうるのだから。

「しんどい」と言う考えが人をつまらなくしている

「最近ゲームしんどい」⇒「しんどいとこ無くしました」

・・・と言うCMが流れている。

 

恐らく世の中の人の多くはゲームにこんな印象を持っていて、

つまりは『ゲーム否定』だ。

 

「楽しいとこだけ集めた」ら、キャラだったりストーリー

だったり、イベント満載でずっと楽しいのに・・・

 

その考えは正しいし、ごもっともだけれど、それは映画なり

アニメなり、多くは他ジャンルの娯楽が追及してきた部分であり、

それがゲームである必要はない。

 

更にはコスパ・タイパみたいな考え方が入れば、

ゲームのイベントシーンだけを集めた動画を倍速で視聴したり、

それもうなんなの?って感じで「何かをしないために生きている」

だけなんじゃないかとすら思えてくる。

 

結果的に『(上手く行っていない・希望が見えない)自分自身の否定』

なのだろうと思う。

 

まあ、お説教なんて意味はない。好きなようにしたら良い。

 

レガシスウエアの新作と言うかプロトタイプ、3分のゲーム、

DL仮題は自分の好きなように作れている。

 

今は敵のアルゴリズムを考え始めたところ。

動作検証のためにランダムで出現させた敵をひたすら倒す事を

繰り返して、その中から面白そうな組み合わせを本番用の敵配置として

ピックアップしていく。

 

ゲームシステムは・・・製品にはあっても3分のゲームには

一部実装されないものがあって、その関係でとてもシンプルな

ものになりそう。

 

今は一通りの部品を切り出してバリを取ったりヒケを埋めたり、

仮組み前の準備段階。素組みなんで着色もこれから。

・・・まあ陰影は殆どつけない色数の少ない事は変わらないけど。

 

このゲームにはしんどいとこは無い。

ただ・・・「暴力的な事は好きじゃない」など口にしがちな

今時の世代にはそれすらも「しんどい」のかもしれない。

 

まあそれもよし。

Vサインと自信に溢れた表情と

まあ適当に。

 

セカンドシーズンEDのスレッタは闇落ちかなと思っていたけど

あれは母親の前で良い子を演じる表人格に対して、決して

表に出てこなかったスレッタの真の人格なのではないか・・・?

など思ったりした。

 

これまでスレッタとミオリネが並ぶと頭の高さは大体同じくらいに

描かれていて、本来スレッタはミオリネよりも身長が高いのだが

それはスレッタが踵の無い靴を履いているのに対しミオリネが

ヒールのある靴を履いているからなのだけれど、セカンドシーズンの

EDの髪がほどけドレスを着たスレッタがミオリネの手を取り踊っている

シーンではスレッタの方が身長が高く、また体付きもややがっしりと

していて顔付きも精悍なものになっている。要は男役として描かれている。

(元々スレッタは筋肉質な体型だと思うけれど大き目の袖で隠されてきた)

そして戸惑いがちなミオリネの表情は恋心を表現しているようにも思える。

なんとなくだけどこれから闇落ちする展開には見えない。

 

不穏な空気が漂いハードな展開が続きそうだけれど悪の道に進まず、

束縛から解放されたスレッタが大暴れする姿に期待したいかな。

愛を語ることの邪魔さ=理屈VS感情=すれ違い交信。

4月28日に遂に日本でもマリオの映画が公開となった。

先行して公開された北米では既に大人気で相当の収益を上げた模様。

 

んで、公開前の映画評論は辛口でスコアもそれなり。

当然世のマリオファンやオタク層は反発する。

「意地の悪い評論家は口を開くな、ペンも握るな」・・・と。

 

公開後には鬼の首を取ったような「映画評論家ざまぁ!!」な

コメントがSNSには幾つも見られた気がする。

(別に一つ一つコメントを追ったわけでは無いので想像です)

 

しかし・・・評論とは相対(そうたい)です。

過去に存在する全ての作品と見比べながら、この作品はどうなのかと

論者一人一人の分析を述べるのが評論でありレビューなのです。

 

映画ならばコメディーもあれば恋愛ものもあるし、アクションもあれば

シリアスな実話ものもある。

 

それらを・・・ジャンル分けせずにひっくるめて比較するのが評論です。

ジャンルごとに分ければ良いと思うかもしれない。

 

でもそれでは「映画の評論」にはなりえない。

この世に存在する全ての映画と見比べて初めて映画を論じていると

言えるからです。

 

映画に内包される全ての要素・・・シナリオだったり演技だったり、

美術だったり音楽だったり、或いは映像そのものやテーマ、芸術性、

諸々を一つ残らず並べて判定する、何故ならば映画は「総合芸術」

だからです。

 

どんな作品でもオタクの心に刺されば満点なんて考えは許されません。

何故なら評論の場において論ぜられているのは「芸術論」だからです。

 

ところで・・・映画のメタスコアに関してはエンタメ系の作品は

芸術性やテーマ性のある作品よりも低くなるのが通常です。

 

歴史に名を残す名作映画と娯楽作品、点数を付けるとしたら、

どちらが上かなんて言うまでも無いでしょう。

 

と言うわけで「評論家の言う事なんて全てデタラメ」みたいな話には

耳を貸す必要は無いです。

 

更に言うと「スコアが低い=駄作」と言う事でも無い。

評論とは評論を望む者以外が見聞きする事を受容しはしないのです。

 

むしろ「評論」と「好み」を一緒くたに語っている人が居たら、

そっちを警戒すべき。

 

評論やレビューは「好きを語る場」ではないからです。

まあ映画をあまり見ない、何かを論じる立場にも無い、知見も無い

自分がこんな事を書いても誰の心にも刺さらないでしょうが。

共有できない時代

『若者の○○ばなれ』などと言う言い回しはあまりに使われ過ぎて

聞き飽きてしまったが、若者に限らず「テレビなんて見ない」自慢、

「Lineなんてもうおじさんしかやってない」自慢に「タイパ」自慢、

「Youtuberオワコン」自慢などなど、一時代を築いたものを過去にして

自分は最先端を歩いているアピールに余念が無い。

 

若者はゲームボーイを知らないしテレホンカードも分らない。

コナンやクレしんは知ってても、サザエさんやまるちゃんは

知らないかもしれない。

 

一人一台のスマホに手元で何でも即座に手に入れられる時代、

同じ世代であっても体験しているコンテンツはバラバラで

世代が違えばその差は歴然、共通の知識や共有できる体験なんて

数えるほども無いかもしれない。

 

だからこそ久々に日本中が熱狂できたWBCは盛り上がったわけで

「ばえの時代」「バズりの時代」と・・・SNSで他者と共有する事が

ステータスと言われ続けながら見てるチャンネルは個々で異なり、

上っ面の共感を維持する為だけに義理コンテンツを倍速で消費し、

それでもカバーできない箇所はまとめサイトで履修する・・・

 

果たしてそれを本当に「同じ時代を生きている」と呼べるのだろうか?

 

あやふやで無責任な時代をなんとなくの知ってるそぶりでやり過ごす

我々は様々な情報をSNSなどで共有してはいるが、実際は何一つ

共有できてはいないのかもしれない。

 

 

頑張っても報われないと言う名の勲章を

現在開発中の3分のゲーム、シーン遷移などの基本処理を構築中。

自分で作ったテンプレートから作り始めても、ゲームによって

細部の構造やUIの演出が異なるのでまともに動くようになるまで

結構かかります。

 

特にネーム入れのフレームはフォントやカウンターの画像を

そのゲーム固有のものに全部入れ替えしないといけないので

かなり面倒。

 

エクステンションで画像をフォントのように扱えるものが

あるらしいけれど、それだとアクティブオブジェクトのような

扱いが出来なくなるのでは・・・?と言う疑問があって、

自分は未だにそう言う仕組みは全部自作している。

 

全部自作すれば海外のAmigaC64のゲームにありがちな

ネーム入れのテキストが動きまくったりアニメーションしたり

するやつも比較的簡単に出来る。

 

そう言うの・・・他所で聞かないよね、「頑張ってます」っての。

 

国内のコミュニティを覗いても他のツールの方が百倍使い易いから

そっちに行った方がいいみたいな話ばかりしていて、使い易かろうが

使い難かろうが、そう言う所に拘りを持って作り込んでる人は結局

少数派で、使い易ければ良いゲーム作れるって訳でもないだろうと

そう思わずには居られない。

 

まあ選ぶ側のユーザーたちが気にしてるのは単純に見た目の良さで

作り手もユーザー出なら大して変わらないか・・・と言う話ではある。

 

3分のゲームは早めに完成しても公開自体はコンテストの頃合なので

遊べるのはちょい先の話。

 

コンテスト絡むんで情報もあまり出さないけどそれまでお楽しみに。