カベジマ研究所2

Legasyswareのゲーム開発と日常をゆるく適当に綴っていくブログ

それはもう定義されてしまうのだ

ゲーム性のないゲームを考えている。
今日一日、そんなことを考えていた時間が、多少あった。


自分はゲームが好きだし遊ぶならばゲーム性のあるものを遊びたいけれど
世の中には個々それぞれの事情や思惑、或いは単なる嗜好でゲーム性・・・
と言うかアクション性のないものを好む方々もいらっしゃる。


中には
「アクションゲームなんて子供のやるものだ、いい大人がそんなものを
夢中になってやっているなんてかっこ悪い・・・」


なんて考えている方もいるかもしれない。


ゲームにも「大人向けのゲーム」「子供向けのゲーム」があったとして
「大人向けのゲーム」ならば大人が遊ぶのに相応しいのかもしれない。


ただ、大人向けのゲームと聞いて思い浮かぶのはどのようなものだろうか?
自分はRTSや本格的なボードゲームやウォーシミュレーションなどの
戦略性の高い思考型のゲームを思い浮かべる。


或いは海外製のゲームに見られるフォトリアルなグラフィックスの
探索要素のあるTPSなんかは本来大人の好むデザインなのだろう。


でも・・・日本でそう言った骨太のゲームがヒットしたなんて話は
殆ど聞いたことがない。


日本で「大人向け」と言えば・・・これは偏見であるが
マイルドなアダルト要素のあるゲーム・・・を指していて、
それらにも戦略性はないことはないだろうけれど上記のボードゲーム
シミュレーションものとは全く比較にはならないだろう。


RPGの戦闘のようなものは確かに戦略性はあるけれど次の一手が限られており
何よりも「次の局面がどう動いていくのか判らない」なんてことはあり得ない。


誰かが既に攻略していればその情報を元に同じ操作をするだけなので
最早戦略がある(自身で戦略を打ち立てる)とは言いがたい。


つまり、大人向けのゲームには大人向けのゲーム性=戦略性があるはずだが
日本においては戦略性の少ないゲームが逆に好まれる・・・つまり一般的には
ゲーム性は高くない方が喜ばれるわけだ。


そんなことを考えていたら「ゲームを作る」ことが馬鹿馬鹿しく思えてくる。
多くのユーザーの好むような物語とキャラクターさえあれば問題ない。
あとは個々のタイミングで次のページに進めばいい。


これは進化だ。
太古の時代に海に入った四足歩行の哺乳類がクジラやイルカになったように
ゲーム性は時代の流れと共に少しずつ小さく短くなり、今やその痕跡を
残すだけとなった。


進化したゲームに必要なのはページを進めるボタンだけ、と言うわけだ。


ゲームにだって定義はあるだろうけれど定義がどうであるかなんてまでは
脳に書き込んだ覚えはない。


でも「こういうのだって立派なゲームです」と誰かが言えば、
それはもう定義されてしまうのだから其をも受け入れていく他はない。


しかし個々それぞれの事情や思惑(時間がない・お金がない・腕前がない)
があるわけで、本当はゲーム性の高いゲームを遊びたいと思っている方も
中にはいるだろう。


だからゲームは作られているしゲームを作ろうと思う人もいるのです。
アクション性の高いゲームも、高い戦略性を求められるゲームも、
どちらにも必要不可欠なのは短期的か長期的であるかの差はあれど『集中力』。


だとするならば今の日本の大人の皆さんは外要因的集中力が欠乏しているのかも。
・・・まあ面と向かって集中力がないのだろうとは言えませんので。


ゲーム性のないゲームだってゲームであると定義はされてしまっている。
だったらばゲーム性のないゲームでゲームとして面白いゲームを考えねば
ゲームの進化はそこで終わる・・・のではないだろうか?


なんと言っても少子高齢化でゲームの入門者は減り、生物である限り
老化からくる様々な能力の減衰は避けられないのでゲーム性の高いゲームを
求める市場はどんどん減っていくだろう。


世界で真っ先に超高齢化時代に突入していくであろう日本には
ビデオゲームと言う文化が今後辿ると思われる道のり・・・未来のゲームの姿が
垣間見えている。


ゲーム性の“あまり高くない”ゲームが人気を博すことは悪いことではない。
今後・・・いつの日かそれらが世界の主流となるならば日本は先行しているのだ。


けれど、ビデオゲーム文化の大きく開花した時期にその中心となった国で
いかにもゲームらしいゲームの影が薄くなってしまっている状況はとても悲しいものだ。


ゲーム性のないゲーム。
その可能性の一つがVRなのかもしれないが全く違う道だってあるかも知れない。
しばらく考えてみることにする。