カベジマ研究所2

Legasyswareのゲーム開発と日常をゆるく適当に綴っていくブログ

「楽しい」と「面白い」Rnd-2

ここ何日か集中が続かず、作業の合間合間(10分いじったら30分息抜きみたいな)で
世間ではあまり知られていないけれど遊べばめちゃめちゃ面白いゲームを紹介する
youtube動画を連続で見てて・・・結局その再生リストにあった動画は見終えてしまった。


そこで改めて「面白いゲームは面白い」と言う『基礎の基礎』を再確認出来た。
面白いゲームが面白いのは当然ではないかと皆さんは思うかもしれない。


でも・・・ShmupsAcademyの時にも何回か書いたけれど
「面白い」と「楽しい」は実は全く異なる現象で世の多くは「楽しい」を基準に作られている。


スマートフォンで遊ぶソーシャルゲームは多くの人が参加しているから「楽しい」。
でもあれが買いきりのスタンドアロンでハードもコンシューマーで全くの同内容で、
一人黙々と遊ぶゲームだったらどうだろう?それでも「楽しい」のだろうか?


もしかしたら「面白い」はそこにあるかもしれないけれど恐らく「楽しい」とは
最早感じることはないのではないだろうか。


つまり「楽しい」は『モノ』に宿るのではなく人に由来している。
人に由来するものだからインフルエンサーのような人が「これは良い物だ」と言えば
それを所有し参加することが「楽しい」。ステータスになる、自慢できる、だから楽しい。
友達が増える、仲間外れにならずに済む、だから楽しい。


一方で面白いは『モノ』そのものからしか抽出されない。
だから面白くないものを面白いと言う人はいない。


面白くないものをこねくり回すのが「面白い」と言う人もいるけれど
こちらはむしろ「楽しい」に属するものと考えられる。


お人形さんごっこに代表されるような一人遊びは自分自身の中に仮想人格を生み出し、
その仮想の他者と時間を共有する・共感することが「楽しさ」の正体であり、
「面白さ」とはやはり一線を画す。


「面白い」は論理で語られるべきもので人によっては冷たく感じるだろう。
だがそれ故に誤りがない。感情に左右されないので指標として確実性がある。


「良い物だ」と言われているものをまた別のインフルエンサーのような影響力ある人が
「こんな物は駄目だ」と言いだしたとして、今度は一転それを持っていることが
マイナスの評価になるのだとしたらこれほど馬鹿げたことはない。


流行は常に変っていく。そういったことを当たり前と感じるかもしれない。
でもそのような上辺だけを見ていて次々とモノを消費しスクラップに変えていくやり方が
賢い考えだとは到底思えない。


だからこそ「楽しい」と「面白い」は別々に語られるべきなのだ。
「楽しい」は楽しいで構わない。享楽的に今を楽しむことを否定はしない。
でも「面白い」を疎かにするな・・・とそれだけは言っておきたい。


流行りにも論理にもどちらも強い、そんな人がカッコいいと言われる世の中になって欲しい。


話を面白いゲームに戻すと、面白いゲームは『夢中になって遊ぶことが出来る』
と言う点で際立っていることに気付く。


つまり「楽しい」どころではない。
「世間的に楽しい状態かどうか」なんてことすら忘れるほど
「とてつもなく楽しい」のである。


一人遊びの楽しさは仮想人格との時間の共有・共感にあると書いたが
『夢中になって遊ぶことが出来る』ゲームの体験はそれをも凌駕するのだ。


「面白い」の感じ方も一つではないだろうが、少なくとも流行り廃りで使い捨てられる
ものよりは遥かに強く人の心にイメージを残すだろう。


とは言え今後も「面白い」の価値観が世の「楽しい」を上回ることはないだろう。
それでも臆せずに「面白い」ものを大事にしていって欲しい。


「楽しい」ものは直ぐに首をすげ替えられてしまうかもしれないが、
「面白い」ものはきっとその後も何年も語り継がれていくだろうから。