カベジマ研究所2

Legasyswareのゲーム開発と日常をゆるく適当に綴っていくブログ

2019年、静かに始動。

皆さん明けましておめでとうございます。

 

昨年より幾つかのゲ-ムを公開しインディーディベロッパーとして

一つ一つコマを進めて参りました。

 

さて2019年はどのような年になるのか、それはまだ分りませんが

今のところレガシスウェアは大きなイベントを予定しておりません。

 

ですが我々の手がけているゲームのうちの一つ、マキシマム2に関しては

完成版の配信または完成版に準じた内容のデモ版を公開したいと思っています。

 

その他のタイトルもマキシマム2が完成次第、順次開発再開の予定です。

現状ではそれ以上述べられることはありませんがゲーム制作そのものは

全く問題なく続けておりますのでご安心ください。

 

20119年もレガシスウェア及びレガシスウェアのゲームを

どうかご贔屓くださいますよう、皆様どうぞ宜しくお願いいたします。

 

 

レガシスウェア:青嶋荒作

 

ゲームとは取り組みである

今回もまた、面白みの無い記事。

あるとき、耳を凝らしていると聞こえて来たのは・・・

 

「ゲームが難しいとか今時じゃない」

「楽しませようという気がない」

「払った金額分は遊ばせろ」

 

みたいな話だったりした。

 

先ず、何故難しくてはいけないのだろうか?

死にゲーなどというジャンルがいまや確立されていて、

難しさをゲームの魅力の一つに数えることも珍しくはない筈。

 

ましてやアクションゲームなどであれば難易度の高さと言うのは

そもそも予期出来る範囲のものであり、そのゲームがなぞらえている

輪郭が判っているのであればそれを口にするまでもなく、おのずと

甘い辛いも分ることだろう。

 

もちろんゲームに詳しくない者からすれば知り得ぬことかも知れぬ。

 

ただ、ゲームとは読了して終わるものではなく、向かい続けるもの。

開始して3秒でゲームオーバーになり、そしてそれを3時間繰り返したとしても

意外にも「払った金額分」は遊べているし「楽しま」されてもいるし、

それもまた「今時」なのではないかと思う。

 

何故ならばゲームとは「取り組み」だからである。

 

取り組みには終わりはない。足元には現在(今)があり、

一つの目標を達成しても直ぐに次の目標が見つかる。

取り組み続けることで未来に財産を引き継がせることが出来るのである。

 

昨今のゲームの多くはエンターテインメントとなり、そこに取り組みはない。

消費するコンテンツだから「足」が早く、急いで飲み込む必要がある。

だから喉に引っかかるようなものであってはならず、総じて生ぬるい。

 

それはそれで今時のゲームの魅力の一つであるから構うこともないのだが

それが全てのゲームの嗜み方ではない筈で、ましてや甘い辛いが事前に

予測出来ているのであれば、むしろ嗜み方を学んで来なかったことにこそ、

失念があったのではないだろうか?

 

ゲームとは取り組みだ。

ただまあ全てのゲームが取り組みなのではないのかもしれない。

 

しかし取り組むことをないがしろにし、辿り着けなかった目標に対し

恨み言を言う様子はあまり「ゲームを楽しんでいる」姿には見えない。

 

失敗も挫折も取り組みにはつき物だ。

成功の喜びも必ず訪れるものではない。

 

「楽しむ」と言うことは様々なものを受け入れ、

万物を抱き愛す聖母の如き寛容さがあって成し得ることではないか?

 

エンターテインメントは人に娯楽を与えはするが、同時に

人から慎ましさや逞しさを奪って行っているような気がする。

 

難しいゲームに限った話ではなく、取り組む気持ちは育てる心構え。

刈り取ることにばかり気を取られませぬように。

情報の取捨選択の機会喪失

世の中は便利になったような気がする。

ような気がするけれど、それはきっと気のせいだ。

 

昔よりは便利になったかもしれない。

ポットは自動でお湯を沸かしてくれるし

洗濯機は自動で洗濯をして乾燥までしてくれるし

食洗機は自動でお皿を洗ってくれるし

月の支払いも自動で更新してくれる。

 

 

でもだがしかし、そこに至る過程はどうなってしまったんだろう?

 

ポットのお湯は自動で沸く。でも水は自動で湧いているわけではない。

いずれは自身で給水までをも行なえるかもしれないが水を入れるのは人間だ。

 

洗濯機は自動で洗濯してくれるけれどその洗濯物はどこから来る?

服を着るのは人間だ。着なけりゃ洗濯物も出ないだろう。

 

食洗機に入るのは使った食器。

まさかお店で使用済みの食器は買って来るまい?

 

そこに至る過程があって便利さは形となる。

 

インターネットを覗けば自分好みの情報を自動でピックアップしてくれる。

なんでも自動でやってくれるから便利だ。

 

でも、その情報は・・・どこからやって来るんだろうか?

 

Aと言うものの情報を得る為にBとCを調べなければならないとする。

Aの知識を得ると同時にBとCの知識も蓄積される。

 

でも何処かから湧いて出る情報は正しいのかどうかすら、よく分らない。

 

通販サイトでは自分の好きな商品の情報がピックアップされてくる。

Aと言う商品が好きならばDもきっと気に入りますよ!Eなんかも人気です!

 

そうやって誰かに"あてがわれた"情報を僕らは収集している"気"になっている。

 

何も見ず何も聞かず、何も考えず、誰かに「好きだ」と決められている。

 

でも確かに、言われてみれば僕はこれが好き。

そんな気がしてならない。

 

でも、自力で好きになる機会を奪われている。

そして誰かの用意したものを好きになってはいるが

用意されていないものの中には好きなものはないのだろうか?

 

世の中は便利になって、特に情報を集めることは簡単になったと言っていい。

 

でも、本当にそうなのか?知らない世界は存在しないのだろうか?

何もかもを知っているような気分にはなっているけれど

それには何か意味がある?

 

知らないことがある・・・なんて素晴らしいことなんだ!!

そうは感じはしないのか?

 

情報の取捨選択の機会はアルゴリズムの進化により、上手に奪われていく。

それはつまりビックリするような発見がどんどん減っていくことと同義だ。

 

人は創造の意欲をどんどんと奪われていく。

 

どんどんと便利になっていく世の中。

いや、全て気のせいだ。

 

簡単に単純に浅薄に、変わっていく過程でしかない。

Kaiju Super Datetech

この世にただ一匹、巨大な怪獣は何を思う?

 

昨夜テレビで放送していたシン・ゴジラを観ていた。

シン・ゴジラならば単性生殖も可能なのかもしれない。

文字通りのモンスターだ。

 

ゴジラシリーズにおけるゴジラは怪獣と言う種類の生物だ。

普通の動物と同様に朝起きて食物を食べ排泄し、夜眠る。

怪獣にもオスとメスが居て交配し卵を産む。

 

ゴジラに妻が居るのかどうかは定かではないが息子は居る。

メスのゴジラは抱卵するのか、それとも子で生んで授乳するのか?

 

とにかく、怪獣にもロマンスはあるらしい。

 

Kaijyu Super DatetechはPowerhoofが開発し公開している

Name Your Own Price方式のインディーゲーム。

 

ステージは後戻りの出来ない任意スクロール方式でプレイヤーは

道中落ちているパーツ(?)を拾い集め、それらを組み合わせながら

電動車輪やロケットを上手く使って起伏を乗り越えつつ自走させ、

気が付けばそこに「出来上がっていた」メカメカしい怪獣の恋人を

ゴールで待ち受ける怪獣に引き合わせ、カップリング成功ならば

ステージクリア・・・と言う内容だ。

 

カニック的には以前紹介したRegular Human Basketballと似ていて

恐らくプログラムを流用して作られていると思われる。

(念のため言っておくとディベロッパーが同じなのだ)

www.youtube.com

 

物理動作を取り入れたプラットフォーマーで亀を踏んだり

リングを集めたり、丸ノコやスパイクを避けさせる以外で

プレイヤーに何をさせるか?

 

そのお題に今回も見事に答えてくれたと思う。

ポップなピクセルアートとジャパニーズニンジャなBGM、

そしてゲームを盛り上げてくれる面白いサンプリングボイスの数々。

 

YOブラザー、こいつがゲームだ!!

つい、そんなよく分らないノリで手を空にかざしたくなる、

そんなゲームだ。

 

ゴジラにもメスが居るかはさておき、怪獣はパートナーをご所望だ。

さあ、上手くできるかな? 

 

https://powerhoof.itch.io/kaiju-super-datetech

無人の野を進むマシーン

自分の作りたいものは面白いゲーム。

万人がそう思うかは解らない。でも遊んで面白いゲーム。

遊んで面白いのだから遊んでいない時は特に面白くはないゲーム。

 

自分はゲームにおいて、グラフィックスの美しさにこだわりは無い。

こだわりがあるとすればデザイン性だ。万人がそう思うかは解らない。

綺麗だから良いのではなく、トータルとしてデザイン性に統一感があり

そして一つ一つのデザインが纏め上げられており、美を感じる。

こういったものが好きだ。

 

だから自分達のゲームもその様な方向性に向かっていると思う。

そしてそれは世の多くの人の好みと合致するとは限らない。

特にゲームに対し思い入れの強い方々の好みとは合致しにくいだろう。

 

きらきらしたエフェクトやぬるぬるとしたテクスチャーには

自分は特に惹かれない。

 

型抜きしたレザーのようなエッジのある艶やかな表面が好きだ。

 

だからその様なものを作る。

最近の例で言えばマキシマム2がそれに当たるだろう。

 

もし、作りたいものは作らせないと言うのであれば

自分はもう何も作らない。

 

面白いものが作りたい。

作っていて面白く、且つ遊んでみて面白い。これが理想だ。

 

遊んでいない時は頭の片隅にも無くて構わない。

遊んでいる時は無心になって他のことは何一つ考えずに

それ専用に作られたマシーンのようになってひたすら効率を考え

突き進みたい。

 

世の人の考える面白さとは恐らく真逆のものだろう。

 

でも、そう言うものが作りたいのだ。

ならば仕方がない。無人の野を進むのも仕方のないことだ。

 

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インスト左

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インスト右

 

「5か1か」の数値なき評価には「もう飽きた」

もう、何度も何度も同じことを言い続けてきているので

「このこと」に関してはもうこれで最後にしようと思う。

 

日本版通販サイトのユーザー評価の話である。

付けられる評価の最高が「5」で最低が「1」だ。

 

以前はユーザーの評価に対して「参考にならなかった」の投票が出来たので

サイト内でピックアップされる上位のユーザー評価は比較的平均を取ったものが

表示される傾向にあったのだが、参考にならなかったボタンを廃したことで

良くも悪くも支持を集めたものがダイレクトに上位に行くようになった。

 

5か1かの2択であるならばそれはYESかNOかの選択だ。

そしてそれは「評価」でもなんでもない。

 

右手と左手、どちらが好きか?「右手」?じゃあ左手はもう要らないね。

・・・などと言う感覚でどちらかを切り取られるような、そんな判定に

信頼を置くことができる?

 

YESかNOかの2択からは何も生まれない。

だってどちらかを切り落とす考え方だ。二つの内の一つが失われる。

 

選択肢が減るのでそれを問われる側からすれば頭を使わずに済み、楽ちんだ。

結局のところ「5か1か」に終始してしまうのはそれが簡単だからに他ならない。

5か1かの議論は簡単だから誰にでも出来る。

 

誰にでも出来る程度の価値判断基準ならば、なるほど。

確かに誰にでも理解でき、誰もが共感するのかもしれない。

 

でもそこには何の感動もない。結果だけを1行で知るようなものだ。

 

その作品がなぜ、どのような理由で優れているのか?

或いはどの部分がどのように改善されるべきなのか?

それらは細やかな観察と精緻な分析を踏み、段階的に語られねばならない。

真剣に向き合っていれば一口で語れるようなものではない筈だからだ。

 

世間的には何かを数値で表すことを嫌う傾向にあるかもしれない。

「冷たい」「味気ない」「共感し難い」「数値で表されると逆に信用できない」

様々な理由や考えがあることだろう。

 

でも数値は嘘を付かない。

人為的に嘘の数値を示されることはあっても数値が嘘を付くことはない。

それは計算によって求めることが可能なのが「数値」だからである。

 

「5か1か」と言う名の2択では計算をすることが出来ない。

0と0なら0、1と0なら1、1と1ならば2・・・だが、1か0かであれば

入力が有ったのか無かったのかを見張るだけだ。計算は必要ない。

 

今の理屈で言うならば思慮深さは計算の回数であるとも言える。

どうだろう?数値もそれほど冷たい感じはしないのではないか?

 

真剣に向き合えば瞬間の感情だけで推し量ることなど出来はしない。

自身に疑念も浮かべば葛藤も起きる。

 

そんな時に指標となっていくのが内なる「数値」だ。

数値は己の考えを整理していく上での手助けとなる。

 

YESかNOか?

いや、それはもう飽きた。

次回からはYESとNOを足してみてくれ。

 

それが最初の「数値」だ。