カベジマ研究所2

Legasyswareのゲーム開発と日常をゆるく適当に綴っていくブログ

ゲームとは取り組みである

今回もまた、面白みの無い記事。

あるとき、耳を凝らしていると聞こえて来たのは・・・

 

「ゲームが難しいとか今時じゃない」

「楽しませようという気がない」

「払った金額分は遊ばせろ」

 

みたいな話だったりした。

 

先ず、何故難しくてはいけないのだろうか?

死にゲーなどというジャンルがいまや確立されていて、

難しさをゲームの魅力の一つに数えることも珍しくはない筈。

 

ましてやアクションゲームなどであれば難易度の高さと言うのは

そもそも予期出来る範囲のものであり、そのゲームがなぞらえている

輪郭が判っているのであればそれを口にするまでもなく、おのずと

甘い辛いも分ることだろう。

 

もちろんゲームに詳しくない者からすれば知り得ぬことかも知れぬ。

 

ただ、ゲームとは読了して終わるものではなく、向かい続けるもの。

開始して3秒でゲームオーバーになり、そしてそれを3時間繰り返したとしても

意外にも「払った金額分」は遊べているし「楽しま」されてもいるし、

それもまた「今時」なのではないかと思う。

 

何故ならばゲームとは「取り組み」だからである。

 

取り組みには終わりはない。足元には現在(今)があり、

一つの目標を達成しても直ぐに次の目標が見つかる。

取り組み続けることで未来に財産を引き継がせることが出来るのである。

 

昨今のゲームの多くはエンターテインメントとなり、そこに取り組みはない。

消費するコンテンツだから「足」が早く、急いで飲み込む必要がある。

だから喉に引っかかるようなものであってはならず、総じて生ぬるい。

 

それはそれで今時のゲームの魅力の一つであるから構うこともないのだが

それが全てのゲームの嗜み方ではない筈で、ましてや甘い辛いが事前に

予測出来ているのであれば、むしろ嗜み方を学んで来なかったことにこそ、

失念があったのではないだろうか?

 

ゲームとは取り組みだ。

ただまあ全てのゲームが取り組みなのではないのかもしれない。

 

しかし取り組むことをないがしろにし、辿り着けなかった目標に対し

恨み言を言う様子はあまり「ゲームを楽しんでいる」姿には見えない。

 

失敗も挫折も取り組みにはつき物だ。

成功の喜びも必ず訪れるものではない。

 

「楽しむ」と言うことは様々なものを受け入れ、

万物を抱き愛す聖母の如き寛容さがあって成し得ることではないか?

 

エンターテインメントは人に娯楽を与えはするが、同時に

人から慎ましさや逞しさを奪って行っているような気がする。

 

難しいゲームに限った話ではなく、取り組む気持ちは育てる心構え。

刈り取ることにばかり気を取られませぬように。