カベジマ研究所2

Legasyswareのゲーム開発と日常をゆるく適当に綴っていくブログ

どんナノぼよヨン知らんがな

4月も半ば。検証中の新作シューティングゲーム『DG』も

実験と基礎整備だけで表向きの進展はなにもなし。

 

別に難航してはいないけど過去に何度か述べている通り、

タイトルに込められた意味合いからゲーム内容が遠ざかっていて

DGのDは特に問題ないけどGの要素が薄くてどうするか・・・

みたいな所であれこれ考えを巡らせている。

 

デザインも当初はモノクロ調で考えていたが今はノープラン。

ただ、アーケードゲームのようなリッチな見た目にはせずに

少な目の色数でビジュアルを統一する方針には変わりない。

 

とりあえず登録してある敵をランダム出現させて、

固有アクションでバキバキと撃ち落していくのが楽しいが

昨今のゲームと比べて派手さは皆無でそもそも売れ筋では無い。

 

当初用意した中世ヨーロッパ風のフォントやタイトルロゴも

雰囲気に合わなくなってきた。

 

どうなっていくのかは全く判らない。それがすごく面白い。

 

今は地上敵を用意して戦車シューに寄せていくテストをしている。

こう言うのも過去に試作してるので実装は簡単。

 

作業自体は進めているけど何一つ発表できるものは無い。

今現在はそう言う状況なのよーん。いや、知らんがな。

学校は「特別」ではない存在だからこそ特別足りうる

最近ネットを見ててよく聞く(?)話。

「今どき学校に通う奴は遅れてる、昭和のおっさんの発想」

みたいなやつ。

 

自分には思うところがあって

学校には通わないと言う判断は別に間違っていない。

ただ「俺は行かんけどお前らは絶対に行け」と言わないならば

クリエイター的にもお笑い的にも、きっと彼は凡人だろう。

 

世の中には身近に学校そのものが無くて通いたくとも通えない

子供達も沢山いる。

 

「別に通えるけれど通わない」が成立するのは、

そのインフラが既に整備されているからで、要は恵まれた環境に

育ったからそれを口に出来ると言う程度でしかない。

 

通えるけれど通わない選択をする事自体別に画期的でも無い。

いじめや精神的な苦痛などから通えない人も沢山いるだろうが

単に行きたくない・行く必要が無いと感じたから行かなかった

と言う人だって別に珍しくは無い。

 

それで中には成功した人もいるだろうし一生苦労した人も

居るだろう。

 

つまりオンリーワンでは無いよ。

 

特別な存在になる為には先ず特別では無い状態から始める事が必要だ。

 

え?君は最初から・生まれた時から特別な存在だったって?

じゃあこれからの人生は特別じゃなくなる過程でしかないね。

このシーンに合うのはこの曲だ

少なくとも、シューティングゲームにはBGMは欠かせない。

 

ノリの良い曲がかかっていると気持ちいいと言うだけでなく、

曲の進行具合でステージ内容を記憶したり攻略出来たり、

或いはBGMの拍がボタンやレバーを押したり弾いたりする

タイミングになっていたりと、ゲーム性やプレイフィールと

密接に関わっているからだ。

 

昨今のゲームは大容量化の恩恵で表現力も飛躍的に向上し

楽曲の出来が酷いゲームなどほぼ存在しなくなったのだが、

その一方でゲーム各々のシーンに演出面・プレイ面共に

ピッタリとはまるBGMを持つゲームは少なくなってしまった。

(異論は大いにあるだろうけれどここは断言させて戴く)

 

先ず、開幕のシーンに相応しい楽曲は基本的にノリノリの曲。

プレイヤーをゲームの世界=別次元に誘う入り口として、

非日常感が重要なのである。

 

クリエイターの趣味やクライアントの意向もあるだろうが

少なくともシューティングにおいては開幕でテンションが

上がらないと弾除けや出現即撃破の、ゲーム固有のリズムを

作りにくくなってしまう。

 

そしてボスの曲は更に重要だ。ゲームによってはボス専用の

曲が無い(ステージ曲のままボス戦に移行する)場合もあるが

ここでボスらしい曲がかからないと更にリズムを作りにくく

なってしまうのだ。

 

要はボス戦の緊張と各ステージの適度なリラックス状態とでの、

神経の交換が大切と言う事で、故にボス戦ではノリの良い曲よりも

緊張感漂う少し不気味な曲の方が相応しいのである。

 

その様な事も踏まえ、シューティングゲームにおいて理想的な

ボス戦の曲を持つゲームをいくつか挙げておこう。

 

1)沙羅曼蛇

2)TATSUJIN

3)雷電

 

勿論個人的な意見であるし、自分が古いゲームしか知らない・・・

と言うのもあるが、おおよそ本質を捉えていると思う。

 

「盛り上がる」と言う感じ方は人それぞれなので自分とは同じように

感じない人も沢山居るだろうし、趣味に合っている事が重要だと

感じる人も多いだろう。

 

昨今だとボス戦でボーカルの付いた曲がかかったり、激しい場面で

逆に静かな曲がかかったりする事もあると思うがそれが誘発するのは

恐らく「多幸感」であって戦いに向う兵士の血潮を沸き上がらせる

ものではないのである。

 

「このシーンに合うのはこの曲だ」

 

それがあるゲームはきっと良いゲームに違いない。

どんなに楽曲が良くても、それがシーンに合っていなければ

プレイヤーはやがて冷めてしまうのだ。

 

まあ・・・心のどこかにでも留め置いてくれたまえ。

長い茶筒

 

今回は柔らかい口調で。

 

現在鋭意検証中のシューティングゲーム『DG』の話です。

これと言って進捗はなく、特に続報は無いのですが・・・

まあ何にも無いと言うのも寂しいので、今語れる部分に限定して

ちょっとだけ、ネタを明かしてまいりましょう。

 

先ず『DG』と言うタイトルですが・・・これは現段階では

お教えできません。略称がDGなのは確かなのですが、その内訳は

変わるかもしれません。

 

・・・と言うのも、ゲームの根幹となるシステムが未だに確定

していないので、タイトルがゲーム内容と一致しなくなる

可能性も有るからなのです。

 

DGのスタートはその一つのアイデアからで、タイトルもそこから

来ているのでゲームシステムが変わるとDGがボヤけてしまう。

 

ゲームの芯が決まらないのでそれに伴い色々と決まっていかない

部分、変更が必要となる部分が出てくるのです。

 

今のところ確定しているのはストーリーの入り口部分だけで、

これは「強国同士の戦争に神様が介入、一方を勝たせるように

祝福を与えるが、それを知ったもう一方は悪魔に助けを求める。

かくして神と悪魔の代理戦争が今ここに始まる・・・」

と言うもの。

 

DevilのDとGodのGで『DG』とも読み解けるのでこれがいいなと

思った訳ですが、正式タイトルにはデビルもゴッドも含まれません。

 

今も検証中なのですが(とは言え実際に組むよりも頭の中での

シミューレーションが多い)まだ穴が多くしっくり来ていません。

 

最近、他の方のゲームや昔のアーケードゲームの動画などを

よく見ていますが、改めてそうか、凄いなと思うことが多いです。

ただ・・・そこで「自分には出来そうもない、無理だ」などとは

微塵も思わず、「そうか、こう言う時はこうすれば良いのだな、

なるほどなるほど、そのアイデアはありがたく頂戴しよう」など

無謀にも思ってしまうのです。

 

新しい事を全くやらないならばウケのいいゲームは直ぐに作れそう。

などなど変な自信を得てしまう。まあ悪い癖ですね。

 

今現在DGは長いトンネルならぬ「長い茶筒」の中に居ます。

このフタ硬くて開かないし、無理に開ければ勢いで茶っ葉が

飛び散りそう。どうしたもんか・・・。

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仮の自機。芯が決まらないのでビジュアルスタイルも決まらない。

あのカーブ、苦しい?苦しくない?

色々と考えて、もしかしてこう言う事だったのではないか?

などとこれまでは自身になかった結論を見出す事がある。

 

最近、未だに自分ではその面白さをほとんど理解出来ていない

弾幕シューティングとは『数式』を楽しむものなのではないか?

と言う仮説にたどり着いた。

 

勿論この仮説は弾幕シューティングを愛好する全ての人に

当てはまるものでは無いが、そう考えると数学が苦手な自分が

弾幕シューティングを上達しないのも、好きになれない事にも、

なるほど合点がいく。

 

弾幕シューティングの主成分たる『弾幕』は

多くが関数式によって形作られる曲線上に弾丸が沿って動く事で

形成されている。

 

自分も多少なりともゲーム制作をかじっているのでこの程度の

知識は有り・無しで言えば「無し寄りの有り」なのだが、

ゲーム作成中でも「このくらいの隙間」「このくらいの頻度」

「このくらいの発射数」にしたいのでこんな感じに組む・・・

と言う程度の技術力しかなく、関数曲線を思い浮かべながら

「だからこう」と言うような確信は残念ながら持っていない。

 

しかしそう言った事を軽く想像できる人達もいるのだから

当然プレイヤーだって同じである。

 

「この弾の撃ち方はあの数式・・・ならば次はここが開く」

そう言う事がプレイ中に見えているのであれば弾幕を抜けるのも

面白いだろう。要はシューティングゲームをプレイしている様で

実際は計算式を解いているのだ。この場合数学が楽しいのだ。

 

だとするならば自分にその面白さが理解出来ないのも当然だ。

その人達にとって狭所はストレス足り得ないのだ。

 

実際その様な感覚を持ったプレイヤーやクリエイターが

どの程度居るのかは良く分らない。

 

ただ、次元が違う可能性には気づく事が出来た。

そうか、だからエンタメ(ポルノ)で対抗する人達が居るわけなのか。

 

自分はどう抗うか・・・まあ今まで通り『面白さ』で

ぶつかっていくしかないだろう。

 

幸いにして面白さの解体と解析は多少なりとも覚えがある。

今まで通り苦しい戦いをして行こう。

さようなら全てのエヴァンゲリオン

最初に・・・ネタバレあるかもしれないのでそこは断っておく。

 

今日、シン・エヴァンゲリオン劇場版を観て来た。

序破Qに続くリメイク版エヴァンゲリオンの4作目。

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序が2007年、破が2009年、Qが2012年なので、

実に9年ぶりの新作であり、第一作目から数えると

完結までに実に14年かかった事になる。

 

劇中での碇シンジは14歳でQでは更にその14年後が描かれている。

 

今回の序の公開から数えて14年と言う数字は、

恐らく狙ったものでは無いと思うが(とも言えないが)、

エヴァンゲリオンの完結には正に相応しい区切りだったとも言える。

 

映画はシンジの物語というよりはゲンドウの物語と言った印象で、

(勿論主人公はシンジだし最後までシンジを中心に描かれる)

これは庵野監督自身とエヴァとの物語でもあったのだろうと感じた。

 

どうすればシンジはもうエヴァに乗らずに済むのか・・・?

その問いは「どうすれば金輪際エヴァ作品を作らずに済むのか」

・・・と、セットになっている。

 

その仕込み段階として序破Q(特にQの14年経過)はあり、

シンにおいて遂にエヴァ登場人物たちの抱える全てに決着がつく。

 

ボクら観客はもう二度とエヴァンゲリオンを呼ぶ事はない。

彼らは全ての過去にケリをつけ、そしてそれぞれの終着駅へ

降車していった。

 

14年と言う歳月は子供を大人に、大人を老人に変える。

さようなら全てのエヴァンゲリオン

 

僕たちも君らと同じように清清しく、相応の歳を取った。

 

 

 

追記。偶々はま寿司に入ったらシン・エヴァンゲリオンとの

コラボ中で限定メニューや様々なタイアップ・キャンペーンが。

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初号機暴走ロールは流石に注文しなかったですが・・・。

(例のディストピア飯とかだったら食べてみたいけど)

 

追記の追記。

昨夜、『プロフェッショナル 仕事の流儀』を見た。

今日はtwitterでもそれに関して色々と賑わっていたのだが、

その中に、シンエヴァ庵野監督が伝えたかったのは

「結婚して子供を作れ」みたいな事だと言うものがあった。

 

勿論そのような「種としての本来の姿、幸せとは?」

と言うようなメッセージは有ったと思うけれど自分的には

クリエイターに対するメッセージ強かったのではないかと思う。

(勝手な思い込みだけど)

 

それは「何かの丸写しじゃなくそれを吸収しオリジナルを作れ」

と言う事だ。

 

プロフェッショナル 仕事の流儀では、庵野監督とスタジオカラー

煮詰まっていく様が生々しく伝えられていた。

 

面白かった・・・などとは口が裂けても言えないが

他人事ならば面白かった。

 

庵野監督の流儀にあーだこーだは自分が語っても仕方がないので

この辺で。

塩と味噌なら難しい

この間からDG(仮)の作業を進めてはいるものの、全く捗ってはいない。

何故かと言うと・・・相反する要素を組み合わせているので互いに

打ち消しあったり、逆に片方が効き過ぎて成立しなかったりしていて

ゲームシステムとして纏まらないのである。

 

これはこのアイデアを出した時から分っていた事なので焦りは特に

無いのだが、上手く行っていないので少なくともゴキゲンでは無い。

(BGMだけはゴキゲンなのだが・・・)

 

料理ならば「塩と砂糖」であったり「塩と酢」など、方向が大きく

異なる調味料を組み合わせる事で新たな味付けを生み出すことが

出来るが今回は無理に例えれば「塩と味噌」と言う感じであり、

ただ合わせればしょっぱいだけだし、加減して良い具合にしても

どの道しょっぱい。

 

相反するのだから一方は甘ければ良いのだがどうも甘くは無いのだ。

 

イデア的には誰もが一度は思いつくがやってみて直ぐに諦める様な

手合いのものだ。

 

計算ずくめで無理やり形にしたところで面白くはならないだろう。

それをシンプル且つ有効に機能出来るように纏め上げるのが

今回のテーマなのである。

 

今のところ五分五分。

ゲームというのは調整次第でいくらでも「とりあえず遊べる」

ものにはなる。でもそれでは駄目なのだ。

 

「このシステムありき」で尚且つ「面白い」ものにしなければ

作り手として面白くないのである。

 

相変わらず技術面では無いところで一人喧嘩をしている。

誰か塩を送ってくれ。また別の誰か、その塩を撒いてくれ。

そのまた別の誰か、その撒いた塩を片付けておいてくれ。

 

しょっぺーしょっぺーしょっぺーわ

天日に干しても天塩です。